近傍運用シナリオの検討

池田 人(MMX近傍運用検討チーム)

MMXミッションは,火星衛星からサンプルを持ち帰ることで,その起源を明らかにし,火星圏の進化史に新たな知見を加えることを目標としています.この世界初の火星圏からのサンプルリターンを実現するためには,火星圏への往還技術,火星衛星への到達技術,表面への降下・着陸・滞在技術,さらに天体表面での高度なサンプリング技術が必要となり,これらの技術獲得も宇宙工学としてのミッション目的になります.現在の想定では,2024年に探査機を打上げ,2025年から2028年までおよそ3年間火星圏に滞在,2029年に地球帰還の予定です.

私達「近傍運用検討チーム」は,その名の通り火星衛星の近くで実施する探査機運用について検討しています.火星圏に到着するのは2025年なのに,随分早くから将来の運用を検討しているな,と思われるかもしれませんが,ミッション成功のために必要な作業になります.プロジェクトの早い段階で詳細な運用検討を実施することで,抽出した課題・気づき事項を探査機システム設計,運用設計へ前もって反映することが可能となるのです.

MMXでは,ミッション要求を満足するためのさまざまな観測要求が設定されています。それら観測要求に応じて,望遠カメラ,広角カメラ,近赤外分光計,質量分析器,ガンマ線・中性子線計測計,ダスト計測器,レーザー高度計などの多種多様な観測機器が搭載される予定です.これらの観測機を用いて,いつどのように観測を行うかの近傍運用シナリオを策定することも我々のチームに求められている作業になります.

図1(a) 火星中心慣性座標系 図1(b) Phobos中心回転座標系(火星-Phobos方向固定)

火星衛星近傍での科学観測のために,探査機が定常的に滞在する観測軌道を選択する必要があります.これまでの日本の探査機の軌道を振り返ると,月周回衛星「かぐや」は,月の低高度・極軌道(平均高度約100km,軌道傾斜角約90°)に投入し,金星探査機「あかつき」は,長楕円軌道に投入し,周回しながら観測を実施しました.一方,小惑星探査機「はやぶさ2」は,小惑星Ryuguの近傍(0km〜数10km)まで接近しますが,周回軌道には投入せずに,小惑星表面に対して接近と上昇を繰り返すホバリング方式と呼ばれる観測方法を採用しています.このように,探査ミッションに応じていろいろな観測軌道が取られますが,MMXでは,火星-火星衛星の質量比,火星衛星の軌道長半径などから計算される力学的条件を考慮して,QSO(Quasi-satellite Orbit)と呼ばれる,これまで利用したことがない新しいタイプの軌道を観測軌道として採用する予定です.この軌道は,火星中心の座標系でみると火星衛星と同じような軌道を運動しますが(図1a),火星衛星中心の視点でみると探査機が火星衛星の周りを“見かけ上”周回しているという特徴を持ちます(見かけ上周回しているので擬周回軌道と呼ばれます)(図1b).

図2(a) 2D-QSO 図2(b) 3D-QSO

QSOは,大まかに分類すると,火星衛星の軌道面内を運動する2D-QSOと呼ばれるもの,軌道面外にも成分を持つ3D-QSOと呼ばれるものがあります.2D-QSOでは探査機の直下点はいつも火星衛星赤道面付近にありますが,3D-QSOの場合は,傾斜角次第で中緯度〜高緯度領域も通過します(図2a,b).

近傍運用のシナリオ構築に際し,運用性,観測高度等を考慮して,暫定的に高高度(100x200km),中高度(50x100km),低高度(30x50km)の3種類の2D-QSOをベースラインとして設定し,火星圏滞在中に,各種観測要求(いつ頃,どの高度から,どれくらいの期間,どのような観測を実施するのか)に着目して運用を整理しています.具体的な運用シナリオを検討する時にはさまざまな条件を考慮する必要がありますが,その中でも,太陽距離,地球距離,太陽-火星-地球の配置,日陰・掩蔽のタイミング,火星衛星の表面から見た太陽方向・地球方向などの環境条件は大きな制約となります.例えば,観測機器からの要求で太陽光入射角の条件が規定されている場合,その条件を満足する期間を逃してしまうと,滞在期間中に火星衛星表面全体を観測することができないということになってしまいます.また,探査機自体の制約も考慮する必要がありますし,推進剤燃料の観点から際限なく軌道変更はできません.さらには,火星衛星のごく近傍で探査機を安全に運用し着陸するために,精度の良い火星衛星の物理モデル(重力,形状,表面の凸凹)が必要になります.そのため,到着後の観測によって情報を更新する必要があります.滞在期間中最大のイベントである着陸&サンプリング運用の前には,着陸地点の選定(Landing Site Selection: LSSと呼ばれる)の儀式が催されます.LSSではそれまでに取得した観測データを各観測機器の担当が処理し,結果を統合してサンプル採取地点候補を絞ることになりますので,LSSの開催までに,議論に必要な火星衛星の観測は全て終了している必要があります.

科学観測要求という理学的な側面,探査機運用要求という工学的な側面を両立させ,可能な限り安全かつミッション成果を最大化する近傍運用シナリオを構築するために,理工学一体となって,サイエンス運用検討ワーキングチーム(Science Operation Working Team: SOWT)を立ち上げて検討を推進しています.詳細な運用シナリオについてはまたの機会にご報告したいと思います.